翡翠の星屑

第48話 - 少女と青年

季月 ハイネ2020/08/06 02:18
フォロー

 目指す光は手が届きそうなくらいなのに、決してそこまでたどり着くことはない。遠い、遠い、届かない場所。

 傾きかけた太陽を目指すように歩く道のり。白光が照らす街並みは、以前自分が目にした頃となんら変わりなかった。景色はにぎやかで、すれ違う人は、まとう空気や容姿ひとつとっても華々しい。急ぎ足で向かうのは家路か職場か。きびきびとした動作につられてこちらも姿勢が伸びるが、他の誰かに干渉をさせず、彼らだけで閉じられた空気はどこか冷たい印象をも受ける。


 少なくとも人と人との交流はルパほど見られない。それに、ルパの宿屋で見たような喧騒けんそうもここにはない。あるとするなら、もっと暗い、より緊張をはらませたいさかいだけだ。

 たどり着いた民家。木製の軽い扉を引き開けた瞬間、シェリックはぎょっとして動きを止めた。


「……戻った」


 言うつもりはなかったのだが、扉を開けた途端にフィノと目が合ってしまったのが運の尽き。何も言わないのはおかしいだろう。気まずい空気の中に身を置くよりはよっぽどいい。


「おかえりなさい。残り雨には当たりませんでしたか?」


 決まり悪さを覚えて、うしろ手に扉を閉める。フィノと顔を合わせるのは、本当は一拍空く予定だった。もう少し心の準備をくれても良かっただろうに。入口に面した部屋にいられたのではそれは叶わない。

 そうして不意に思い出す。この国には他の国とは異なる、少々独特な文化があったことを。


「ああ。多少は被ったが、そんなに気にはしていない。もうやんでるしな」


 雨が降っているときには出歩かないのだと。明確な制度ではない、暗黙の決まりごと。

 それを文化と呼んでいいのか甚だ疑問ではあるが、隣国で同じ光景を見かけなかったことを思い起こすと、やはり文化と呼んで差し支えないだっろう。


「雨が降る中、出かけて行く風変わりな方は、あなたとエリウス殿くらいではないでしょうか」


 隣国では普通の行動が、この国では風変わりだと称される。場所が違うだけでこんなにも変わるのだから不思議なものだ。


「人の目につかなければこちらとしても都合が良かっただけだ。……あの変人と一緒にしないでいただこうか」


「それは失礼しました」


 初めの挨拶以降、フィノはこちらを振り向きもせずに答える。火の傍にいるのだからそこから動けないのも無理はないか。先ほどから漂ってくる甘い香りの正体は、恐らくフィノが手元で混ぜている鍋の中身だろう。


「久々の雨でしたが、上がるのは意外と早かったんですね。いつもならもう少し降り続くのですが」


「大方、無理がたたって見習いにでも任せたんだろう。あいつならもっと本格的に降らせる」


 雨を降らせるのは王宮にいる魔術師たちの役目。その中の一人はシェリックの旧友だ。


「見たことがあるような口ぶりですね?」


「一度だけな」


 今朝出されていた雨の予報は、本日の午前に来るという旨だったか。

 今回の雨がもし旧友の仕業なら、きっと簡単に嵐まで引き起こすだろうし、それほどの力の持ち主だとも知っている。そうでないのであれば、自分たちに使いすぎて魔力が回復していなかったとか。


 浮かんだ人物をやり過ごし、自分には関係ないのだとかぶりを振る。本日の分も担当していたならご苦労なことである。そこまで同情してやる気は端からないし、たまにはざまを見て、辛酸をなめればいいのだ。

 ふつふつとこみ上げるものを抑え、さてラスターはどうしたかと首をめぐらせる。ここにいないということは奥の居室か、階上の寝室か。


「どうでしたか? 久々の王宮は」


 映した目線の先には、鍋に入っている液体を器に注ぐフィノがいた。一旦手を休め、人の好さそうな笑みで問う彼をじっと眺める。


「――どうして、出かけた先が王宮だと?」


 確かに、出かけるとは言い残していった。だが、シェリックが口にしたのはそれだけだ。記憶にある限り、フィノに行き先を告げた覚えはない。


「ずっと気にされているようでしたから、何となくそう思っただけです。六年ぶりになるんでしょう?」


 六年。それほど経ったのか。人に言われると年月の遠さを強く感じる。ラスターといたときには思い出しもしなかったいつかの光景が、浮かんでは消えて。戻ってきたのだと、その事実だけ深く刻まれた。


「ああ……何も変わらないな。外観だけじゃわかることは少ないが」


「そうですか」


 フィノは鍋を焜炉コンロに戻し、器の中身を木さじで混ぜる。こうして見ていると違和感がないどころか、彼には調理場が似合う気さえしてくる。しっくりとくるのだ。


 ――行ってらっしゃいませ。


 深く訊いてこないことに安堵するも、思い出してしまったのは、出がけにかけられたフィノのひと言。

 もし、初めから見透かした上で言ったのだったら、相当に食えない人物である。外見の人の好さは生来の性格か、見かけ倒しか、はたまた演じたものか。彼の何を信じていいのかわからない。確かなのは、これ以上シェリックやラスターを害することはないのだということ。


「ラスターは? 寝てるのか?」


「いえ、ラスター殿でしたら上に」


「上?」


 となると、階上の寝室か。


「ええ。シェリック殿が出かけたあと、気分転換にと思ってお教えしたのですが、すっかり気に入ったようでして。あれから降りてこないんですよ」


 見上げた天井は、太陽がまだ天上にあるこの時間でも薄暗く、つるされた灯りでほのかに照らされている程度だ。人の顔は判別できるし、手元も見える。薄暗くはあっても不満をこぼすほどではない。

 さて、上となると、ラスターは寝転がった布団でも気に入ったか。ルパの宿屋でも、だいぶお気に召していたようだし。


「シェリック殿も上ってみます? 王宮には及ばないですが、なかなかいい眺めが見られますよ」


「? ああ」


 ということは寝具ではないらしい。この家の二階だって、高さはそこまでない。二階からの景色なんてたかが知れてるだろうに。

 ラスターは国を出たことがないと話していたし、見覚えのないものばかりだから物珍しいのかもしれないが。


「ついでにこちらもお願いしてもよろしいですか?」


 差し出されたものと、フィノとを見比べた。


「……お前、初めから押しつける気だったな」


「ばれましたか」


 取手つきの器をふたつ受け取る。湯気の立ったそこからは、甘い香りが立ち込めてきた。


「ああ、これか。珍しいな。こんなもの持ってたのか」


 覗いた中身が茶ではないことに驚く。

 ここ数年見かけなかったとはいえ、甘い香りがした時点で気づくべきだった。


「ええ、ラスター殿はこちらの方がいいかと思いまして。シェリック殿は、お嫌いですか?」


「いや、飲めなくはない。隣国にはあまり出回ってなかったからな」


「そうですね。ああ、でもルパでは見かけた覚えがありますよ。あそこには世界中の食材が集まりますから」


「ルパと他の場所を比べない方がいい、あそこで扱っていた食材の種類は、他とは訳が違う」


 ――ほら、飲んでみなさいよ。酸っぱくはないし、甘いだけでもないんだから、あなたでも飲めるでしょう?


 そういえば、彼女がいたく感動して飲んでいただろうか。そうやって何度か彼女につき合わされた覚えもある。懐古の情が強くなるのは、この国に戻ってきたからだと言い聞かせる。別に、今更変えられる過去でもあるまいに。


「お願いしますね。お熱いのでお気をつけて」


「ああ」


 間近で触れた湯気が嘘でないことを主張する。主張されたって中身に直接触る気は全くもってない。

 シェリックが歩く度に、器の中で水面が波打つ。こぼれないように、こぼさないように。こうやって気をつけていたなら、変えられた過去もあっただろうか。

 かつて味わった無力感と、今なお絶えることのない後悔と。結末を知りながらも、見なかったふりをして。

 あんな思いはしたくない。目の前で誰かを奪われる思いは、もう二度とごめんだ。


 シェリックが上がった二階、廊下の奥にそれはあった。

 フィノが『上る』と表現していたことにようやく納得する。シェリックの背よりも少し高いくらいか。背伸びして手を伸ばせば届きそうな天窓、そこにかけられていたのはひとつの梯子はしごだった。

 なるほど、これは確かに上らなければならない。

 持っていた器を左手でひとまとめにした。行けなくはない。こぼさないよう手元に注意を残して、梯子は右手だけ使って上る。


 上るごとに見えてくる天窓の向こうは、屋根の上だ。見覚えのある背中と、風になすがままにされている長い髪と。ぐしゃぐしゃになるだろうし、紐《ひも》で結べばいいものを。

 屋根の平らなところに器をいったん置く。声をかけようとして、視界にそれが入った。

 左手首に巻きつけられている紐。それは以前、ラスターにあげたものだ。髪紐がなくなってしまったラスターに、代わりになるものが何かないかと、星命石についていた紐をちぎって渡したのだ。

 ふっと息を吐き、シェリックはひと息に梯子を上りきる。屋根に足を乗せると、とん、と軽い音を鳴らした。


「――よく飽きないな」


「あれ、シェリック」


 その背中へと声をかける。足を前に投げ出して座っていたラスターが、首だけこちらに向けてきた。


「戻ってたんだ。おかえり」


「ただいま。ほら、フィノから差し入れだ」


「ありがと。――甘い匂いするケド、何コレ?」


 器の片方を差し出し、ラスターの隣に腰を下ろす。


「レチェだ。飲んだことあるか?」


「ううん。初めて聞いた」


 まあ、当然か。ルパでさえあるかどうか怪しいくらいだったのだから、奥地にいたラスターが知らないのも仕方ない。


「チャレという実を粉末にして、糖と一緒にファイで溶かすんだよ。実だけだと苦くて、とてもじゃないが飲めない」


「なんかそれ、ガローみたい――あつっ」


「できたてだ。熱いぞ」


 ラスターの一連の流れを見ながら、自分の分はちゃっかりと冷ましていた。それに気づいたらしいラスターから、恨めしげににらまれる。


「……言うの遅くない?」


「遅くない」


 なおも言いたそうなラスターを無視して、少しばかり口に入れ、顔をしかめる。持ってくる直前までフィノが火にかけていたから当然なのだが、まだ熱い。


「――あ、ほんとだ。甘いケド、ちょっと苦いね。でもこれ、クゥートよりずっと飲みやすいよ。あれ、ほんっとうに苦いし」


 両手でくるんでいた器を屋根に置き、ラスターは膝を抱える。ゆったりとした動作で、どこかぼんやりとしていそうな雰囲気だったが、街並みを見据える彼女の瞳の強さが、その全てを裏切っている。


「ずっとここにいたのか?」


「うん。空がね、全然違うんだ」


「空?」


 シェリックが見上げても、変わらない空がそこにある。立ち並ぶ建物のせいで、ルパで眺めた時よりも狭く、小さいとも思える空。ああ、でも今は。


「雨上がりだからな。空気が澄んでるんだろ」


「うん、すごく濃くてはっきりとしてるんだ。アルティナのカードみたい」


 アルティナのカードを見たとき、ラスターがえらく感動していた。シェリックも、あの出来栄えは一種の芸術ではないかと思うのだ。頭上に広がる深く真っ青な色彩は、確かにあの色とよく似ている。


「どこかで竜でも飛んでるかもな」


「また適当なコト言うし」


「適当じゃねえよ。あれの元は、アルティナにいた生き物だ」


「そうなの? じゃあ、竜って本当にいたんだ?」


「さてな」


「……ねえ、それどっち?」


 困ったように眉根を下げた表情に、ついつい声を上げて笑ってしまった。なんてからかいがいのある――それをラスターに話したら機嫌を損ねるだろう。想像に難くないので、胸に秘めておく。


「あれから体調はどうだ?」


「うん、全然平気。元気だケド――」


 ふはっと、今度はラスターが笑いだす。面白いことを言ったつもりはないが。


「なんか、船のときと反対だね。あのときはシェリックが辛そうだったのに」


「それもそうだな」


 ラスターにそれを聞かれたのはほんの数日前でしかないのに、数か月も経っているような感覚がする。それほど懐かしいなんて思ってしまうのは、ここ数日で色々なことが起こりすぎたからだ。

 ――ま、俺の薬も効いたようで何よりだ。

 本当は船酔いなど克服できていて、船上での体調不良の全ては、旧友のせいだったのではないだろうか。その可能性はなくもないけれど、ではもう一度船に乗ってみるかと問われたら全力で遠慮したい自分がいる。


 苦手なことと向き合うのには、いくらかの覚悟と踏み出すための勇気、それにやり遂げようとする気力が必要だ。克服せずとも特に支障はないのだから、このままでも構わない。万が一船に乗ることがあれば、そのときにまた考えればいい。

 そうして先延ばしにした事態が、のちのち悔いる原因になるだろうが。


「お前、船でも景色ばっかり眺めてたろう。そんなに珍しいか?」


 この整然とした街並みはとても綺麗だ。綺麗だけれど人の手で造られすぎていて、自然の入る隙がないのが難点か。悪くはない、けれども好きにもなりきれない。整えられすぎると、崩してしまう感じがしていて。


「うん。見たコトないものがいっぱいだし、ルパと全然違うんだなって思って。あそこに見えるのが王宮?」


「ああ、あれがそうだ」


 ラスターが指をさしたそこには、シェリックがたった今近くで見てきた王宮がある。小高い丘の上に建てられている王宮は、遠くからでもよく見える。町中にある建物と比べても段違いな大きさは、アルティナが示す権力だ。王宮に高々と掲げられているのは、アルティナ王国の象徴である銀青の旗である。

 あの場所に戻るのか。置いてきた全てと向き合うために。


 戻るつもりはないと大言壮語を吐きながら、結局はそれを覆すことを決めたのはシェリック自身だ。今更どうこう言い訳するつもりはない。待つのは非難か侮蔑か、あるいは誹謗《ひぼう》か中傷か。間違っても歓迎の類ではないことは重々承知している。

 残っていたレチェをひと息に飲み干す。冷めきる前の、甘苦いその味を。そうしてシェリックが戻ろうと腰を浮かせたその矢先だった。


「――ここで見る夕焼け、綺麗そうだね」


 まだ半分ほど中身の残っている器を両手で持ちながら、ラスターは町から視線を外さずに言った。静かに太陽を見つめる彼女を置き去りにするわけにもいかず、同じ方向を眺める。

 どうしてそんなことを言い始めたのか――考えて気づいた。ラスターは、まだアルティナで夕焼けを見ていない。輝石の島からやってきて、床に伏していて。ちゃんとした意味でアルティナを見たのは、きっとこれが初めてなのだろう。

 白から黄に変わりゆく太陽。橙からやがて赤へと移るのは、そう遅くないだろう。それでも、もう数刻はかかる。


「お前、それまでここにいる気か?」


「うん。だって、あと二刻くらいでしょ? すぐだよ」


 本当、もの好きな。けれどこれが初めてだったなら、ラスターを魅了するほどの町並みだったのだ。その町並みが赤一色に染まる景色。見慣れたはずのシェリックでさえ、時折息を呑むほどの美しさだ。


「先に戻ってていいよ。ボク、ここにいるから――わっ」


 戻ってから脱ぎ損ねていた外套がいとうをラスターの頭に落とし、もう一度隣に腰を下ろす。


「……びっくりした。上着?」


「これから冷えるだろうから羽織ってろ」


「シェリックは? いいの?」


「お前、自分が病み上がりってこと忘れてないか?」


「そういえばそうだっけ」


 本気か冗談か――きっと前者だから手に負えない。そんなシェリックの心情など露知らず、ラスターは屈託なく笑うのだ。


「ありがとう、借りるね」


「ああ、貸しておく」


「――あ、ほら、灯りが点いてきたよ」


 ラスターの言葉を合図にして、次々と灯っていく。陽が完全に落ちればきっと、灯りに照らされた夜の街並みが見られるだろう。


「もう少しで夜だね」


「ああ」


 こうして一日が終わっていき、また新しい日が始まるのだ。今はまだ明るくて見えづらい星も、夜が深くなればはっきりと見えるのだろう。なにせ、本日は雨上がりなのだから。

 瞬く星々に迎えられて、そうして夜が訪れる。見上げた真白の月はまだ淡い。星とともに金色に輝くのは、街が寝静まった頃。たったふたつきり、星と月だけの時間。誰にも邪魔されない、彼らだけの密やかな夜だ。


 陽が落ちきって、様子を見に来たフィノにあきれられるのは、ひと刻ほどあとのお話。