第37話 - 響いた微かな不協和音
「調子狂うなあ……」
ラスターが口にしても、残念ながらそれを聞く者は今ここに誰もいない。
食事に服まで用意してもらって、至れり尽くせりな招待を受けたのは少し前。どうやらラスターはシェリックよりも先に着替えを終えたようで、案内された部屋にシェリックの姿はなかった。
片膝を椅子に立て、卓に頬杖を突いたままの体勢で、ラスターは自分の格好を見下ろした。
白の爽やかな服で、脇に切れ目の入っている裾は太ももの途中までしかない。襟元と袖に細く青い線が二本入っていて、そのせいか白が強調され、少々目に痛い。白い服の下には膝丈の下裾着を着用している。
今は下裾着をはいているけど、こうした上下がひと続きになった服は初めて着る。新鮮な気持ちではあるが、これ一枚だけでは着る気になれない。動きやすさを重視した服装だとはわかるのだが、どうにも落ち着かないのだ。
今ラスターがいるこの部屋で、シェリックと別にされたのは少し前。別室にて風呂に押し込められ、その後半ば強引に渡された服で身を包み、ようやく戻ってきたものの部屋には誰もいない。着替えを手伝ってくれた女性にしばらくここで待つようにと、そう言われてからもうだいぶ時間が経っていた。
新しい服。新しい靴。
着慣れないもののせいで違和感を覚えてしまっている。
ここにいるのが自分ではないみたいだ。
「むう……」
待つだけという行為は退屈で仕方ない。
室内にあるのはくすんだ茶色をした四角い卓と、その周りを囲んでいる同色の椅子がふたつ、生活用品が置かれている気配のする淡い茶の棚、壁にかけられた乾燥食といったものだ。漂ってくる香ばしい香りはそこからだろうか。
お腹は満たされたはずなのに、もう次の食事を考え始めてしまって、そんなに食い意地を張っていただろうかと自問する。
暮らすのに必要最低限のものしか見当たらない。どこか懐かしさを覚えるのは、ラスターの祖母が同じような暮らしをしていたからだろうか。
多くを望まず、留めず、不必要なものは手元に置かない。使いたいものが足りないことはしばしばあり、その度に工面していた。
種類、数、量。それらがあれば楽なのに。ラスターは何度思ったことだろう。
そうだ。祖母も似たような考えの人だった。保存の効く薬以外は、頼まれたら一から釣り始める。どうしてそんな煩わしいことをするのか。あらかじめ作っておけば楽なのに。そう進言した覚えがある。
耐えきれなかったあくびを漏らし、まどろみに目を閉じる。
まだ抜けていないだるさを抱えているせいか、少し眠くなってきてしまった。室内の心地よい温度に浸りすぎて、うとうとし始めたのがわかる。このまま眠ってしまえたら最高なのに。
「行儀悪いぞ」
扉の閉まる音にうっすらと覚醒した。歩いてくるその気配に、ちょうど入ってきたところだったようだと見当をつける。ラスターは立てていた膝を寝かせて、椅子に座り直した。
「これ、着にくいしひらひらしてて落ち着かないんだもん。動きづらいってコトはないケド――」
何気なく首をめぐらせてそちらを見たラスターだったが、まじまじと凝視してしまった。それ以上言葉が続かなくなり、目をぱちくりさせる。
顔はどう見てもシェリックだ。声だって間違いなく。シェリックのものだとわかる。
「何だ?」
「ん。そういう格好初めて見るなと思って」
歩いてくるシェリックに、どう反応していいかわからなくなったのだ。
顔も、発している声もシェリックなのに、服装だけがシェリックではない――というと失礼かもしれないが。
ラスターと同じく、シェリックの服装も、今まで身に着けていた旅装ではない。暗い配色はそのままだったのだが、整えられた襟詰めの上着とその上から羽織った膝までの長い外套、くるぶしまで届く下裾着と足首まですっぽり覆う靴といった服装だ。着ている服全てに動きの邪魔にならない程度の装飾品が飾られ、まるでどこかの貴族のように見えた。
「着にくいのには同感するな」
見目堅苦しいものだが、少なくとも違和感はない。むしろシェリックには妙に似合っている。
正直見違えた。着るものひとつでこうも変わるとは思わなかった。着慣れてる、と言った方がしっくりくる。
襟元に手をかけて崩す仕草も、片手で外套を取る姿も、手慣れているとしか言いようがない。
「ラスター? どこか具合でも悪いのか?」
シェリックに顔を覗き込まれ、はっとして我に返った。
「ううん、大丈夫。シェリックがそんな格好するなんて意外だね。別の人がいるみたいだ」
「意外とはなんだ、意外とは。服は変わったが、中身は変わってないぞ」
「あはは、そうだよね。なんかさ、そうしてると偉い人みたい」
おどけ混じりとはいえ、少々不機嫌そうに眉を寄せるシェリックを見て、ラスターは笑みをこぼした。
「普通の格好だろ。いつもと違う服だから見慣れていないだけだ。すぐ慣れる」
「えー、違和感すごいあるから無理だよ」
「あのな……」
本音を言っただけなのに、なぜかシェリックにため息を吐かれてしまった。そんなすぐ慣れろだなんて、無理に決まっている。
――占星術師、シェリック=エトワールという人がいて。
ふとした瞬間に、船の中でセーミャに言われたことが蘇る。王宮で禁術を犯した人。最果ての牢屋。それと、ラスターが見つけてしまった銀と青の身分証。
できすぎた話だ。考えれば考えるだけそうだと思ってしまう。符号が合致すると思い込んでしまう。
もし本当だったなら、シェリックは王宮で、今のような格好を普段着として着ていたのかもしれない。ラスターが手慣れていると思ったのも、錯覚ではないのかもしれない。ラスターとは違う世界で過ごしていた人物。それが、今ならはっきりとわかる。
考えないようにしていた現実を目の当たりにして、シェリックが遠い場所の人なのだと、実感してしまう。否応がなく。それがたとえ嘘で、ただの空想かもしれなくても。
単なる可能性が、あり得ることでしかなかった想像が、ひとつひとつ形を成してラスターへと突きつけてくる。
それこそが本物だと、間違いないのだと、現実なのだと。
残念だったのだろうか。シェリックが王宮の人だとわかって。
――残念? どうして?
いや、違う。そうではない。
「――準備はいいか?」
問いかけられ、ラスターは自分の考えをしまい込む。
「うん。いつでも」
着替えたら話を聞いて回ろうと話していたのだ。シェリックには休めと言われていたのだが、無理を押しとおして許してもらった。一人で休んでいるわけにはいかない。
ラスターは重い足を動かして椅子から立ち上がり、扉前のシェリックに並んだ。
持ち歩くものは何もない。持っていた荷物は船室に置いてきてしまったし、いつも手にしていたあの棒もなくなってしまったからだ。海に落ちる前はしっかりと握っていたはずだったのに、ここで目が覚めた時にはもうなくなっていた。
重みがない寂しさを振り払い、代わりに手をきつく握りしめる。
なくしてしまったものにいつまでも思いを馳せていても仕方ない。あれだけ広い海で落としたならなおさら、見つかる保証などありはしない。残念ではあるけれど、諦めなければならないのだ。
そう思い続けてはみたけれど、右手の軽さを忘れるのは難しかった。