第32話 - 願うことなら再びを
二人が消えていった海をしばらく見下ろしていたが、どこにも姿が見えなくなったのを確認して、詰めていた息を吐き出した。そこで座り込まなかったのは気力の勝利だと言えよう。
「……あー、あいつまじでおっかねぇわ」
彼女を探して自分と対峙した時と、今のやり取りと。旧友のあの鋭い目つきに、何度肝を冷やしたことか。本来ならば敵に回したくない相手の一人だというのに。あれだけの敵意を彼から向けられたのは、果たして何年ぶりだったろう。二度とごめんだと思ったのは、これでちょうど二度目だろうか。ならば三度目はないと、心に決める。
リディオルは天を仰ぎ、二人の後を追いかけるように――無事に陸地まで連れていくように、風を動かす。そうして、船の周囲に渦巻いていた嵐に逸れるよう命じた。役目は終わったから弾き飛ばしたいけれど、自然現象はそうもいかない。ルパにいた時から集中しっ放しで、さすがに肩が凝った。「年かねぇ」なんてこぼす。
ところどころで狂いはしたが、おおむね予定どおり。後は、この船がアルティナにたどり着くのを待つばかりだ。まだ時間は十分あるし、ひと眠りしても許されるだろう。欠伸をこぼしながら船内への階段を下る。
「もう嵐はおしまいでしょうか?」
――いや、正確には、下りようとして足を止めた。
「……どうしてあなたがこちらにいらっしゃるんですかねぇ、シャレル様」
いくら暗いからと言っても、聞き間違えるはずがない。声だけで判別できるその人物へと、リディオルはいささかの不満をにじみ出しながら尋ねた。
こちらの態度は感じているだろうに、彼女はしれっとしながら答えを教えてくれた。
「様子を見に来ただけです。嵐が収まったのなら、問題はないでしょう」
彼女自身、決して悪びれることなく。
「問題がなくはないでしょう。まだ揺れはありますし、危ないでしょうに」
リディオルはこの自由な主人に頭を抱えたくなった。いや、正確には、『仕えている主人の母親』だけれどそれはいいとして。
嵐を収めたのは今しがた。彼女が部屋から出てきたのは、確実にそれより前のはずだ。
「あなたが揺れないようにしてくれているのでしょう? それに、護衛がいますから大丈夫ですよ」
「そりゃそうですが」
確かに、船が揺れないようにしているのも自分だ。そちらは別に問題ない。それよりも、聞き逃せない単語があったのだ。
「しかし護衛、ですか……」
リディオルがいくら目を凝らしても、二人の他には誰の姿も見当たらない。
「――それは一体、誰です?」
覚えていた嫌な予感そのものを、彼女は答えてくれた。
「もちろん、あなたです」
「ああ、そうですか。言われた覚えは全くないんですけどねぇ」
言わずと知れたことを、なんて表情で驚かれても、こちらに思い当たる節はまるでない。
「ええ、言った覚えもありませんから」
平然と言われ、リディオルは徐々に追い詰められていく自身がだんだん可哀想に思えてきた。
駄目だ、話が徹底的にかみ合わない。このままではこちらがしてやられるばかりだ。
「それで、目途は立ったのでしょうか?」
「ええ、あとはあちら次第です。ま、なんとかなるでしょうよ」
「なら十分です。アルティナに着くまでゆっくり休んでください、リディオル殿」
「ありがとうございます」
これでようやく寝られる。頭を下げながらかみ殺した眠気に涙がにじみ、音を立てずに息を吐いた。
「――ああ、それと」
そうして面を上げたリディオルに、彼女は微笑んだのだ。
「あの子、似ていますね」
思いがけない指摘に息を呑む。表情を変えないよう、動揺を悟らせないようにするので精一杯で、それでも空いてしまった間を取り繕えず。
「――そうですか?」
「ええ。次にお会いするときが楽しみです」
言うだけ言うと、彼女は背を向けて去っていくのだった。言いたいだけ言いに来たのではないかと疑いたくなるくらいの潔さ。もしかしたら本当にそれだけのために来たのかもしれない。
「……本当、おっかねぇ」
同じ言葉であるけれど、かかる意味は全く違うもので。飽きはしないが首を突っ込み過ぎると大変な事態になる。好奇心で入った先が実は虎穴だったなんて、笑えない話だ。
止めていた足を動かし、階段を下りながら、これから大変なことになるぞーと他人事のようにつぶやく。せめてアルティナに着くまでは寝かせてもらおう。向こうに着いたら、どうせ目も回るほどに忙しくなるのはわかりきっているのだから。
「これでも無事を祈ってるんだぜ? 嬢ちゃん、シェリック」
船から落としたのは自分なのに、一体何を言っているのかと抗議されそうだ。けれども、これは本心。ここから先、どう転ぶのだろうか。想像でしかわからない自分には、もはや祈ることしかしてやれないのだから。
そう、願わくば――彼らと無事に再会できることを。
**
真っ暗だ。どこもかしこも闇に包まれていて、目を閉じているのか開いているのかすらわからない。灯りも何もない、ただただ果てしなく黒が続く場所。
ここはどこだろう。
おぼつかない足取りで進む道は、真っ直ぐ進めているのかさえも危うくて。
ふと下を見れば、そこには一本の白線があった。どうやら自分はそれをたどっているようだ。これだけ暗いのに、どうしてこの線だけははっきりと見えるのだろう。
どこへ続くのか、どこまで伸びているのか。当てのない歩みは終わらない。行き着く先もわからなくて。
ボクは――
口を開いたはずだった。けれども声が出ない。それどころか息苦しくて、詰まってしまう。どうして空気が吸えないのだ。
押さえた喉が酸素を求める。急にかすみ出した目と、鳴り始める耳鳴り。どうしたというのだろう。息ができない。――苦しい。苦しい……!
これ以上立っていられなかった。唯一見えていた白線すらも、いつの間にか視界から消えていた。
どこへ、どうして。
向こう側で微かに見ていた線もやがて塗りつぶされ、侵食されていく。抗う術もなく、流されて。
とっさに伸ばした左手が、根元から何かにつかみ取られた。引き戻される力強さに、恐怖するよりもなぜか安心して。
徐々に暗闇が晴れていく。揺らぐ。たゆたう球がいくつも目の前に現れ、触れようとする前に全て壊れてしまう。壊れて、また新しく浮かび上がる水玉模様――いや、これは模様ではない。泡だ。
そうして戻ってくる。自分は、今は、ここは。
水が肺に侵食してくる。ここは水中――海の中だ。
水底が見えない。このまま一番深い場所まで落下し、どことも誰とも知れない海で一生を終えるのではないだろうか。より暗い海淵に誘われていて、そこから逃れるべく夢中で手を伸ばす。上へ。上だと思われる方向へ。
嫌だ。
諦めてしまいそうになる理性。それでもぎりぎりで繋ぎ止められているのは、左腕から伝わってくる温度だ。そこだけ周りの水とは異なる温かさで、確かに伝わってくる温もりなのだ。
水流とはまた違う強さで引き寄せられ、流れに逆らっていく。力強い抵抗に安堵する自分がいて、導かれ、連れられて、その温かみを信じていいのだと思えた。
片手が水を抜けて、空気に触れる。冷気にさらされたのを感じた瞬間、薄れかけていた意識が完全に途切れた。