第30話 - 閉鎖空間、惑いの先に
行く当てもなく、適当に歩を進めていたシェリックに声がかけられたのは、ちょうど甲板に出ようとしていたそのときだった。
「傍にいてやらねぇのか? 冷てぇ奴だな」
無視できる声でもなかったので、仕方なく振り向く。
そこには予想どおりの姿しかなくて、乗客全員を監視しているのではなかろうかと疑いたくなった。思い返してみても、彼との遭遇はあまりに場面が良すぎるのだ。
「俺の前によく顔を出せたな」
「嬢ちゃんはちゃんと返してやっただろ? 何が不満だよ」
そこにいたリディオルは変わらない態度で接してくるものだから、こちらの目つきが常よりも細くなったのは仕方ないことだ。自分に何をしてくれたのか、もう忘れたとは言わせない。
「お前のせいで体調がくそ悪いんだよ。どうしてくれる」
自分の迂闊さと、彼が自分に向けた風の力と。思い出すだけではらわたが煮えくり返ってくる。こうして悪態を吐けるまでには回復してきたから、より一層思い出してしまう。
「別に俺のせいだけじゃねぇよ。おまえの元々の体質もあるんじゃねぇか?」
「言い繕おうが適当なことを言おうが、原因の一端はお前だろう。それは変わらない」
「おー、こわ」
ひとしきり笑った後、腕を組んだリディオルが壁に寄りかかる。
「ときに、嬢ちゃんは元気かい?」
「話す必要はあるか?」
「ねぇわな。いやあ、へこんでるんじゃないかと思って、俺なりにちょっとは心配してたわけよ」
リディオルがそう言うということは、何か知っているということだ。知っているどころか恐らくは――いや、そんな曖昧な言葉では片づけられない。リディオルがラスターに何かをしたのは確かなのだ。
「おまえ、あいつに何をした」
瞬時にたどりついた結論が彼を問い詰める。
「嬢ちゃんに訊いてみたらどうだ? 気が向いたら教えてくれるかもしれないぜ?」
「……訊けるか」
シェリックに触れただけでおびえた目をした彼女を思い出す。それでも一度は尋ねてみたのだ。けれど、彼女が話したくないと言っているのだから、こちらからあれ以上無理に聞けるはずもない。
「だろうな」
彼の含んだ笑みを見て思う。これは、元よりラスターが話さないことを知っていての言だ。本当に性格が悪い。
「しかし、お前も体調が悪いって言う割に、よく出歩く気になったな。大人しく寝てりゃ良かったのに」
それ以上広げる気はないようで、話を変えてくる。
この件に関してはラスターが話してくれるのを待っている。むやみやたらに聞くのはあまり得策ではない。だから、この話題はここで終わりだ。
「ラスターに客が来ていただけだ。俺がいたら邪魔になるだろう」
「ああ、キーシャ様か」
どうしてお前が知っているんだと聞きたくなったが、そもそもリディオルはアルティナに属している人間だし、昨夜起きたことは筒抜けなのだろう。どうせ船内に風でも飛ばして、状況を把握しているに違いない。ならば、知っていても何もおかしくはない。
「――キーシャ、『様』?」
ふと聞き流してしまっていた単語を口に出す。そういえば、ラスターが『アルティナのお嬢様』だと言っていたけれど。
「そ、アルティナのお嬢様だ。今、俺が仕えている主人なんでね。さあて、問題。キーシャ様は、一体何をしに嬢ちゃんの元に行ったと思う?」
渋面を作る。楽しげに訊いてくるということは、シェリックにとってあまりいいことではないのだろう。
「興味ない」
「そんなこと言ってていいのかよ? アルティナのお嬢様だぜ? キーシャ様が全てを把握しているとは言わねぇけど、それでも知っていることはあるだろうよ。お前のことだって、どうして牢屋に入れられていたか、ばれちまうかもな」
誰に。そんなのは一人しかいなくて。
「――どうでもいい」
シェリックがためらった一拍の間。それにリディオルは気づいたのだろうか。
「っはは! それがどうでもいいって面かよ!」
「――っ、」
反論しかけた言葉を無理矢理呑み込み、腹を抱えるリディオルの脇をすり抜けようとする。出ようとしていた甲板を背にして。
「そんな逃げたこと言ってっと、大事なもの失くすぞ」
からかいを一切なくした真面目な声。
すれ違いざまにそんなことを言われ、リディオルを通り過ぎたところで足を止めた。
「――あいつが知ろうが知るまいが、アルティナまで行けば遅かれ早かれ知ることだ。レーシェの事件は風化しちゃいない。俺はもう、アルティナに全て置いてきた。これ以上俺が失くすものなんて、何もないんだよ」
今は何も持っていない。地位も、想いも、全部置いてきたのだ。自分が持ち得る大切なものなんて、何も――
服の下で転がった塊が、その存在を主張してくる。隠しに入れていたそれがどうしてここにあるのか。浮かんだ疑問の直後、答えが教えてくれる。何のことはない、失くす恐れがあったから首からかけていたのだ。
ああそうだ、ひとつあった。失くしてはならない大事なものが、ここに。
「へえ? 今のお前にとって、嬢ちゃんはその対象に入らないと、本当に言い切れるのか?」
嬢ちゃんは。それはつまり、ラスターが?
「ああ。あいつはただの旅の連れだ。あいつの目的が達成されたら、お互いに別れることになるだろう。俺たちは、それまでの道連れなだけだ」
「そうかい。それが後悔にならないといいけどな」
「ならねえよ」
そうしてリディオルの言葉を背に、シェリックはそこから歩み去ったのだ。
**
「――お嬢様、そろそろ」
セーミャが話に割って入ったのは、ちょうど一刻ほど話した頃だったろうか。
「そうね。もっとお話ししたいのはやまやまなんだけど」
「体調を考えてくださいと、初めに申したはずです。航海はまだ続くのですから。ご無理はなさらないでください」
「はーい、わかったわ」
キーシャの吐いた息に少し疲労の色がにじみ出ている気がして、ラスターは思わず腰を浮かせた。
「大丈夫?」
「ええ、平気。ちょっとはしゃぎすぎたかもしれないわ」
話している最中も崩れず、す、と伸びていたキーシャの姿勢。それは彼女が立ち上がっても変わらずにあって、逆に心配になってしまう。
「長居してごめんなさい。そろそろ戻るわね」
「うん。楽しかった」
「私もよ。嵐、早く収まるといいわね。あんなひどい揺れはもうこりごり」
「――うん」
なにげない言葉が痛いところに突き刺さり、ラスターに刹那のためらいを生ませる。そうだ、忘れていたわけではないけれど、考えなければならないのだ。リディオルからもらった、暇つぶしの答えを。
「じゃあ、またね」
「うん、お大事にね」
「ありがとう」
傍に控えていたセーミャを伴って、そこから二人がいなくなる。扉が完全に閉じられたのを見て、ラスターは寝台の上に倒れこんだ。
キーシャのさっきの言葉は、なかなか去らない嵐に対して不満を述べただけだ。自分だって不満を口に出すことはある。真に受けては駄目だ。キーシャは何も知らないのだから。
この嵐はきっと、ラスターが決断を下すまで収まらないのだろう――それだけは確かで。
――占星術師、シェリック=エトワール。
――禁術を犯した人。
セーミャとキーシャの言葉がぐるぐると回っていて、確かめていないのに本人だと錯覚してしまう。まだわからない。シェリックから聞くのだ。自分はまだ何も聞いていない。それに、リディオルの選択を考えなくては。
「どうしよう……」
どうしたって考えるのはこちらが先なのに、今聞いた話も気になって仕方ない。
リディオルは選べと言ったけれど、選べる答えなんてひとつしかないのに。それでもたやすくそれを選んではいけないと、心のどこかで思うラスターがいた。
ぼんやりと天井を見上げる。船はぎいぎいと音を立てて、不規則な振動がラスターを揺さぶる。
外は嵐が吹き荒れているのだ。けれどもそんな嵐を意に介さず、航海はきっと順調なのだろう。このままアルティナまでたどり着くのだ。乗船客は、命が危険にさらされていることなど知らずに。ルパにいたことが、もうずいぶん昔にあった出来事のように思えてくる。
どうしてこんなことを考えなければならないのだろう。無事に着ければそれでいいではないか。アルティナなんて知らない。ラスターたちが行きたいのは輝石の島であって、アルティナではないのだ。ラスターが向かうのが、輝石の島ではなくアルティナだったなんて、そんなことシェリックが知ったら――
「――あれ」
突然湧いた疑問に首を傾げた。
どうしてだろう。
身を起こしてそこにあぐらをかき、ラスターは頭の中を整理する。
リディオルの暇つぶし。誘われた王宮――断ったら沈められる船。ラスターの村で起きたこと。薬師。王宮に仕える人たち。占星術師。禁術。――シェリック。
「どうしてリディオルは、シェリックじゃなくてボクに言ったんだろう……」
――俺の古い友人のリディオルだ。
シェリックはリディオルの友人だ。リディオルもそれは否定していない。二人のやり取りを見ていたけれど、元から仲が悪いわけではないだろうし。リディオルがシェリックに敵わないから、シェリックの傍にいたラスターに焦点が当たったとか。――いや、それはない。
思い返してみてもリディオルの、風を操る力は強力だった。さながら『魔法』のような。基準となる強さはわからないけれど、詳しくは知らないラスターがそう思うくらいだ。きっと相当な強さを持っているに違いない。だからその説はないと思うのだ。
ではその反対。シェリックがリディオルに敵わないとか。
「……それだとボクがいなくてもいいよね」
自分で言っていて悲しくなってきたので、その案は却下した。
仮にもしそうであるなら、リディオルがシェリックに直接仕掛ければいいだけの話だ。そもそも、リディオルが得をすることとはなんだろう。
彼が提示してきたのは、ラスターが王宮に行くこと、行けばシェリックを助けられて、行かなければ船が沈められてしまうこと。リディオルはラスターの村で起きたことを知っていて、いつでもシェリックに言えるのだと示唆されて。
「それとも、ボクが王宮に呼ばれてる……?」
ないない、それはない。絶対にない。
招待なんて、そんな生易しいものではなかったはずだ。ラスターは落としていた視線を上向かせて、とうとう両手足を投げ出した。
考えたってどうせわからない。やはり答えなんてあるようでないのだ。初めからひとつしか選ばせない気で――
「もしかして……」
浮かんだ仮定はひとつ。
確信はない。けれども、ラスターは唇を引き結んだ。寝台の端に座り、緩んでいた靴の紐をしっかりと結ぶ。波立つ心臓を抑え、そこから立ち上がった。部屋の隅、置かれていた棒を手に取り、額に押し当てる。そうして深く二度、呼吸をした。おどおどとおぼつかなかった気持ちが鎮まる。
これでいいのだろうか――いいのだ。決めたのだから。
自問自答をし、自己完結で締めくくる。
約束の時間までは残り半刻。前を見据えて、もう迷わない。
「決めた」
決意とともに、ラスターはそう口にした。