翡翠の星屑

第26話 - 帰還、静寂、言えない心

季月 ハイネ2020/06/20 14:09
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 手の甲で口元を拭い、反対の手で扉を押し開ける。ここに戻ってくるまでなんと長い道のりだったのか。思い返すだけでげっそりとする。

 ──あのあと。本格的に動けなくなったシェリックを、通りがかった船員が見つけ、慌てふためきながら人を呼んで介抱してくれたのだ。あの場所の処理をさせてしまったのを申し訳なく思い、同時に介抱してくれたことにも詫びながら、止める彼らを押し切って戻ってきたのがたった今だ。


 休んだことでだいぶ楽にはなったとは言え、まだそこは嵐の中心。疲労の濃くなった身体を引きずるように歩くのにはなかなか骨が折れた。ようやくここまで戻ってきた時には、すっかり深くなった夜があって。


「リディオル……」


 なんのつもりであんなことを──

 考えようとするも思考がまとまらない。扉に背をつけ、ずるずるとそこにしゃがみ込んだ。考えたいのに、頭が動いてくれない。目を閉じると血のめぐる音が感じられ、暗くなった視界では重い頭痛が際立つ。真っ直ぐに保てない平衡感覚がそれらに輪をかけていて──


「──気、持ちわりぃ……」


 あまりの症状に、力の抜けた声が漏れた。体内をめちゃくちゃにかき回されたような──いや、実際にかき回されたのだ。とにかく気持ち悪さが占めている。何かを考えるどころではない。それどころか再度吐く。これは絶対に吐く。間違いなく吐く。


「あいつ……本気で何を持ってたんだ……」


 問題は、自分の飲んだものが何の薬なのかだ。酔い止めではないことは判明したけれど、船酔いによく似た症状を持つもの──そうして考えることを諦める。考えたところでどうせ、素人の自分にはわかりそうにもないからだ。

 これがラスターに渡されていなくて良かった。今のところそれが不幸中の幸いだと思っておこう。おかげで自分が散々な目に遭ったけれど。


 しかし、それにしても、だ。

 ラスターのことうんぬんをどうするかより、自分のことすらどうにもできないというのはなんと情けないのか。ああ、本当に。情けないことこの上ない。

 そのままそこにいたい誘惑に抗い、自分を叱咤しったして立ち上がる。ここまでなんとか来れたなら、あとほんの少しの距離も歩けないなんてことはないだろう。


 目的の寝台へ着くと上から倒れ込み、ようやくひと心地つく。やはり横になればだいぶ楽だ。ぐったりと疲れているのも手伝っていて、このまま寝て──


「……寝られるわけがあるか」


 無理だ。

 休みたいと訴える身体とは裏腹に、意識ははっきりと起きている。

 ラスターに、リディオルに。何ひとつ解決していない。リディオルをどうにかしない限りには、ラスターを解放してもらえないのだ。


 仰向けになり、閉じた目で思考回路をめぐらせる。

 リディオルを何とかするには、まず自分の体調を回復させなければならない。普段とはわけが違う。まともに動けるようになっていないと、今よりも痛い目に遭うしかなくなってくる。事態の好転どころか悪化の一途をたどっている。


 リディオルは一体、何を企んでいるのだろう。彼の目的が見えてこない。

 ひとつだけはっきりしていることは、リディオルがラスターを利用しようとしていることだ。あの時引き留められていればと、後悔が募る。


 単なる八つ当たりだということも、この上なくみじめだということも、全て承知の上だ。

 だからこそ、何かをせずにはいられない。このままで終わってしまうのは性に合わない。何か、起死回生の策を講じなければ──


「──?」


 シェリックはその場に身を起こす。

 今、何か。

 聞こえたような気がして、耳をそばだたせる。

 扉から聞こえた微かな音。何かが触れたような、注意して聞いていないと聞き逃すほどの、本当に小さな──


「──っ!」


 思い当たった可能性に飛び起き、気持ち悪さを無理くりに押し込めて入口へと向かった。

 取手を回すのももどかしく、シェリックは扉を勢いよく開く。そこには誰もいない。落胆とともに閉めようとしたその時、扉の裏に何かが見えた。


「ラスター?」


 呼びかけるも答えはない。壁に背を預けた状態で、意識のないまま、彼女はそこに座っていたのだ。



  **



 ──近々でかい嵐が来るぜ。


 嵐が。

 風は吹き荒れ、稲光が光っては時間差で音をとどろかせる。波にもてあそばれ、小さな船は右往左往するばかり。取れるはずのかじは効かず、悪化するばかりの事態がそこにあって。

 無事でいられるのだろうか──安全にたどりつけるのだろうか。

 夢と想像が混ぜ合わされ、叩きつける音に起こされた。開いた目が天井を映し出す。明るい。夜ではなかったか。いや、夜だからこそ室内は明るいのかと、妙な納得をする。暗くなければ灯りはつけない。


 ぼやけていた頭がはっきりしてくる。寝かされているのは寝台だ。まさか、まだ悪夢は続くのか。リディオルはどこにいるのだ。

 握りしめた布団、視界によぎった窓はひとつだけ。ここは違う部屋だ。胸をなで下ろしたのもつかの間、窓の向こう側を眺めて、ラスターは目を見開いた。

 室内とは違い、外は暗い。嵐は来ている。しかし、寝台どころか机も椅子も、揺れている気配はまるでないのだ。どうして?


「っ!? ほっ、こほっ!」

 そんなつもりはなかった。それなのに結果として勢い良く起き上がってしまったせいか、軽くむせてしまった。

 涙目になりながらもきょろきょろと見回してみる。やはりリディオルはいない。次に目についたのは、見慣れた棒と、自分の荷物。今度こそ自分たちの部屋だ。そのことに安堵しながら目を滑らせていく。見渡す両目が捉えたのは落ち着いた室内。当然のようにそこにある空気に、奇妙な違和感を覚えた。


 ──嘘だ。ありえない。


 裏づける証拠は、窓の向こうに広がる荒波の群。飛沫という咆哮《ほうこう》を上げ、幾重にもなり、船に向かって襲いかかってくる。

 嵐は止んでいない。それどころか、今まさにその渦中にある。

 それなのにどうしたことだろう。


 何か祭りでもあるかのように、いっそ清々しいほどにぎやかな音が聞こえてくるけれど、船はまったく揺れていない。この空間の違いは何なのだろう。それはまるで、一枚の絵画だ。ここだけ外から切り取られたような──あるいは嵐の映像を見せられているような。先のリディオルとの会話を思い出し、背中にぞくりと震えが走った。

 考えすぎだ。人間に、そんな芸当できるわけがない。


 頭を緩く振る。けれどもあの時、彼は風を操っていなかっただろうか。ラスターが意識を失う前、包まれた突風に根こそぎ奪い取られていった感覚を忘れはしない。また同じ状況に陥る可能性だって、拭いきれないのだ。

 かた、と鳴った音に肩が跳ね、勢いよく振り返る。三度みたびリディオルの姿がそこにないことを確認して、ゆっくりと息を吐いた。動かした目が、入口から近い方の寝台を捉える。布団もかけずに横になり、浅く寝息を立てている彼がそこにいた。


「シェリック……」


 ずいぶん久しぶりに彼の姿を見たような気がする。懐かしいとすら思ってしまった。

 急いていた心臓が静まっていく。大丈夫だ。シェリックがここにいる。

 思わず笑ってしまった。シェリックは片膝を立てていて、寝る気はなかったような様子だけれど、横になったら寝てしまうのに。しょうがないなあと、端にたたまれていた布団をかけてあげる。


 あの場からどう戻ってこれたのかは分からないけれど、きっとシェリックのおかげだろう。

 シェリックは確かにそこにいる。ラスターにとってはそれだけで十分だった。

 口の中でお礼の言葉をつぶやく。いてくれるだけで、こんなにも安心できる。今度は目を覚ましている時にちゃんと言いたい。シェリックに、面と向かって言いたい。頼まれていたことをこなせず、それでいてこちらは彼に迷惑をかけてばかりなのが悔しくて。


 ──嬢ちゃんにあいつは救えない。


「……そんなコト、ないもん」


 ラスターは目をつむる。自分にも、やれることはあるのだ。きっと何か、何かある。そう、なんとかしなければ、シェリックは、この船は──


 ──どちらかを選べば終わるんだ、簡単だろう?


 言葉が甦る。リディオルは言ったのだ。


 ──嬢ちゃんが王宮に来てくれるんなら、もう俺からあいつに手を出すことはしない。これ以上悪化しないように、あいつに薬をやろう。いい条件だと思うんだけどな。


 つかまれた腕を引き寄せられ、ラスターの意志とは関係なしに立たされて。


 ──ただし。もし、嬢ちゃんがこの話を断ったら、


「っ!」


 耳元で言われた気がして、ラスターは反射的に両耳をふさいだ。空耳などではない。それは確かに、言われた言葉のひとつなのだ。

 耳朶じだにまとわりつく、リディオルの低い声音。

 委縮してしまって動けずにいた、ラスターの耳に触れるか触れないかの位置で、リディオルはこうささやいたのだ。


 ──この船を、沈める。