第20話 - その静寂は嵐前と
その姿を認めてラスターは口を閉ざす。二人の後ろから追ってきたのは治療師見習いだった。確か、名前は――
「セーミャ」
「覚えてくださったんですね」
見張らせた目を和ませると彼女は弾んだ息をすぐに整え、居住まいを正して微笑んだのだ。
「ありがとうございました。ラスター、あなたがいてくれて良かったです」
「そんな、たいしたコトしてないし……」
深々とお辞儀をされ、どうしたものかと隣を仰いで助けを求める。ところが今度は視線すら合わせてくれず、知らんふりを決め込まれてしまう。
助けてすらくれないなんて――ラスターは少しの緊張を宿らせて彼女に相対する。と、顔を曇らせたセーミャが口を開いたのである。
「――わたし、あなたに謝らなければならないんです。船員の方が呼んできてくれた時にこんな小さい子が来て、どうなることかと思っちゃって。本当に、すいませんでした」
「あ、う……」
なんと言おう。なんと言えばいいのだろう。
そのとき、背中がぽんと叩かれる。横目でこっそりうかがったシェリックと一瞬、視線が合わさった。
――おまえの言葉でいいだろ。
先ほど言われたことが甦る。伝えるなら、自分の言葉で――
「ボクはできるコトをしただけだよ。ボクはボクの、あなたはあなたのできるコトをした。そうしたらうまくいった。それだけだよ。ボク一人だけじゃ絶対に無理だったもの」
シェリックがいてくれる。それだけで、言いよどんでいた言葉が嘘のようにすらすらと出てきた。だから、ラスターも言いたいことはひとつだ。
「ありがとう。あなたがいてくれたから、ボクも薬を作れた」
「お礼を言うのはわたしの方ですよ! もう、こんなに可愛いなんて思わなかったじゃないですか!」
「え? えっと……」
セーミャの両手がラスターの右手をがっしりとつかんだ。なんだか逃げられなくなりそうで少しばかり及び腰になるも、彼女に両手を上下にぶんぶんと振られる。一度ぎゅっと力を込めて握られたかと思ったら、ようやく手が解放された。
近づいてきたセーミャが声を潜める。なんだろうとこちらも耳を立てていると。
「――実はわたし、小さい頃、親にクゥートを飲ませられたんですけど、あまりの苦さに断念しちゃったんですよ。なので、クゥートを作ってるのを見てちょっとびっくりしてしまって。でもわたし、あなたが作ってたガローだったら飲めそうです」
耳打ちされた内緒のお話に、二人して笑った。
「ありがとう、そんなコト言われたの初めて」
「ふふ、ですから、お礼を言うのはこちらです。これも何かの縁ですし、またのちほどお会いしましょう。お嬢様にもお会いさせてみたいです。アルティナまでご一緒ですから、まだ多少の時間はありますし!」
――アルティナまで。
「うん……そう、だね」
「では、わたしはこの辺で失礼します。引き止めてしまってすいませんでした。お連れのあなたも、ありがとうございます」
言葉の詰まったラスターに気づいていないのか、セーミャはシェリックに話しかける。
「ああ」
「それじゃあ」
「ええ、また!」
立ち止まり手を振るセーミャにこちらも振り返して。見えなくなった姿に、その手をゆっくりと下ろす。
「嘘、吐いちゃった……」
「方向は一緒だから間違ってはいないだろ。ほら、俺たちも戻ろう」
シェリックに促されて、そこから離れる。
セーミャの嬉しそうな表情を見てしまったからだ。輝石の島に行くのだと。ラスターたちはアルティナまで行くわけではないと、彼女にどうしても言えなかった。
**
部屋へと戻る最中、後ろを歩くラスターに裾を引かれる。
「ありがとう、シェリック」
何事かと思って足を止め振り返れば、そんなことを言われたのである。
「別にたいしたことはしてない。気にするな」
「でも、ああいうの慣れてないから、どうしていいのかわからなかったんだ」
あの女性とのやり取りだろう。様子から考えてみるに、あれほどまで率直な説明を求められたのは初めてだったのではないかと思ったのだ。
「少なくともお前のせいじゃない。世の中には、常に命の危険がつきまとう人だっているってことだ。お前がまだ若いからとか、そんな理由で言われたんじゃないぞ」
「うん、ああいう世界があるんだって、びっくりしちゃった」
慰めようとした言葉に制止がかかる。
「きっと、あの人たちには毒見役の人もいるんだよね。大変だなあ」
「――お前、へこんでたんじゃないのか」
船員の頼みを受けて薬を作ったのに好奇の視線を浴びて、その厚意から出た行動すらも拒絶されかけて。追ってきたセーミャとの会話で、気持ちが少し和やかになっただろうとは思っていたのだけれど。
「ボクはまだ子どもだし、ああいう反応されるのはいつものコトだもん。酷い時にはこんなもの飲めるかー、なんて言われてその場で捨てられちゃったこともあるし。もらってくれるだけでもありがたいと思わなきゃ」
ラスターは笑った。何でもないことだとでも言うように、へらっと笑ったのだ。
今までどれほどその事態を経験してきたのかはわからない。けれども、苦笑しながら話すラスターに、相当の数ではないかと見当をつける。
「――でも、いつまで経っても慣れないね。やっぱりボクは早く大人になりたいなあ」
いつかの誰かが同じことを言っていたのを思い出して、既視感を感じる。そう言った自分も、あのときは今以上に子どもだった。
「なってもあまりいいもんじゃないぞ。俺だって、上の人から見たら未熟者だ」
「嘘ぉ」
「本当だ」
いつまでが子どもで、いつからが大人になったと言えるのだろう。それは明確にわかれているものではなく、境界線すらはっきりとしていないのだ。成人したら、酒が飲めるようになったら、仕事に就いたら、親から離れたら。
人によってその基準も様々で、誰しもがいつの間にか、気づいたら大人になっている。そういうものだ。
風で窓が揺れる。はめ込まれた硝子が音を立て、その大きさにつられて外を見た。風が強くなってきたのか。
視線をずらすと、さっきは見えなかった何かが視界の端をよぎった。
違う。見えなかったのではない。すっかり暗くなった廊下と外と、彼の格好が同化して見えていなかっただけだ。
「――リディ?」
狭い通路で二人並ぶのは少し窮屈である。シェリックの陰からラスターがひょいと覗いており、「あ、リディオルだ」なんてのんきな声を上げていた。
「よう、お二人さん。こんなところで奇遇だねぇ」
リディオルも気づいていなかったのか。しかしこんなところも何も。
「同じ船だったら顔くらい合わせてもおかしくないだろ」
「気分だよ、細かいことは気にすんな」
少なくともこの船が出航してから、彼の姿を見かけたのは初めてだ。自分がほとんど寝ていて、部屋から出なかったということも手伝っているか。
「どしたの?」
訊こうとしてラスターに先を越されてしまう。気になったのはこの場にいるということではなく、彼が浮かべていた思案顔だ。何かに気を取られているような、それでいて少し気だるい様子の。
「ちょいとばかし外を見ててな」
「見ればわかる。何か起きたのか」
リディオルがいるのは窓の傍。そこから一歩も動こうとせずに、彼は外を凝視している。会話をしている今もなお、外から視線を外していないのだ。
「ああ。起きたっつーか、これから起きる方だな。近々でかい嵐が来るぜ」
来そう、ではない。リディオルは、来る、と言った。
「思ったより早かったな」
シェリックも頷く。見立てではぎりぎり夜は越えられるかと思っていたのだが、リディオルの言い分では明ける前にやってきそうだ。
「……やっぱり、来るの?」
不安げな――というよりは不満げな表情でラスターがこちらを見上げてくる。
「外、昼間はあんなに晴れてたのに」
「数刻前の話だろ、それは。時間が経てば天気だって変わる――」
「シェリック?」
それは不意を突いてきて。
目眩を感じたシェリックは額へと手をやった。湧き上がってきた気持ち悪さに目を閉じる。意識の外に追いやっていた症状が、まさかここで来るとは思ってもいなくて。
「お前、歩いてて大丈夫か?」
「……うるせえよ」
からかい混じりに言われているのがわかったからこそ、こちらも粗雑に返す。
「やっぱり寝てた方がいいよ。大人しくしてて」
言われなくてもそのつもりだった。
ラスターについていった先での用事が終わったなら、すぐにでも部屋に戻って寝台に倒れこむ予定だったのだ。思いの外具合が良くなったと、調子に乗って動き回っていたらこのざまである。
「ほら、早く」
「……急かすな」
途端に病人扱いされ、爪の先ほどの後悔が募る。こんなはずではなかった、なんて。
「嬢ちゃんもそう言ってることだし、とっとと寝てな」
「……余計な世話だ」
苦笑された気配が伝わってくる。二人して人を病人扱いするなと――言葉の代わりにうめき声が漏れた。
「悪態つける元気がありゃ大丈夫だな。じゃ、嬢ちゃん、そいつ頼んだぜ」
「任せて!」
ラスターの答えは、先の言葉と同じ。けれども、あのときの、緊張した面持ちで薬作りを承った返事とは違う。今度は確固たる意志を持った言葉に聞こえたのだ。
ほんの少しばかり、彼女の成長を見たのではないかなんて。