第15話 - 小さな亀裂、走る音
船が出港してから早半日が経過した。
やることと言えば外の海原を眺めるか船内を探検するくらいのもので、暇を持て余す以外には特にない。大抵の人間であればとっくに船旅に飽きて昼寝をし始めるか、三半規管の強い者であれば読書を、船乗りならば与えられた仕事をこなしている頃である。
じっとしていても揺れる船内では、慣れている者でもない限り、何かしようとは思わなくなるようだ。
海の上は、空でも飛ばない限り逃げ場がない。陸に慣れている人間にとっては、閉じこめられた空間とも言える。
そんな中でこの半日間、ずっと海を眺めているラスターがいた。
甲板の片隅にある欄干のひとつ。そこに寄りかかって、ただただ海ばかり見ていたのである。
赤茶けた髪が海風に遊ばれ、暗青色の瞳はここではない、どこか遠くを見ていた。
思い出すのは母親のこと。今まで訪れた場所、向かいそうな土地。様々な地方を歩いてきたけれど、こうして生まれた国を離れるのは初めてだ。同じように、船に乗るのも初めてなのである。
ルパの漁師が海はいいぞと言っていたのでこうして見に来たのだが、ラスターと同じことを考える人はどうやら少数らしい。初めは一緒になって眺めていた人も、徐々にその数を減らしていき、ついにはラスターただ一人になっていたのである。
ちなみにシェリックに至っては、初めから船室にこもりきりだ。好きにしてこいと言われたので、ラスターはその言葉通り好きにしているのだけれど。
赤みを増した太陽を、何をするわけでもなく見守っていた。
「不思議だなあ」
ラスターは欄干に乗せていた腕を立てて、頬杖を突く。
太陽が昇り、沈む。日々その繰り返しがずっと続いて、終わりなどないのだと信じていた。今よりもっともっと小さい頃、太陽がそこにずっといないのが、不思議で仕方なかった。
『――ねえ、おばあちゃん。どうしておひさまは、いちにちのはんぶんでいなくなっちゃうの?』
『お日様はね、その日その日の役目を終えたら一度隠れてしまうのさ。半分しかいられないのはね、ずっとお空にいたのでは、お日様も疲れてしまうからだよ』
『つかれちゃうの? たいへんたいへん! おひさまは、かくれんぼしなきゃいけないんだ!』
『そうだね。毎日毎日隠れなきゃならないね』
『じゃあ、あのおつきさまはなあに?』
頭上を指さす。
『おひさまとは、なかがわるいの? いっしょにいればいいのに』
そこに浮かんでいるのは、神々しいまでの白黄色。
『お月様はね、お日様が沈んでいなくなってしまった後に、お空が寂しくないようにと思って出てきたんだよ。誰だって、一人きりは寂しいだろう?』
『うん、そうだね。ひとりきりはさみしいね――』
笑って答えた、しわくちゃの祖母の顔。忘れられない、繋いだ手の温もり。
夜になると二人だけの特等席で、おしゃべりをした。早く寝なさい、なんて文句は一度も聞いたことがない。いつも優しく、時には厳しく叱ってくれた。母親がいなくなってからは、ラスターのたった一人の家族だったのだから。
母親を探しに行くと言って出てきた時は、笑顔で送り出してくれて。あれからもう三年にもなるけれど、祖母は元気でいるのだろうか。
あの生活がずっと続くのだと、それこそ終わることがないのだと信じていた幼き頃。あの頃は家から遠く離れるなんて、決して考えも及ばなかっただろう。
「輝石の島に向かってるなんて、嘘みたいだよね」
口に出せば出すほどますます現実味がなくなってくる。未だに信じられないのだ。真新しいもの好きな母親でもあるまいに。まさか自分が故郷を出て、こうして船に乗っているなど。
「……よく飽きないな」
「ひゃっ!」
背後から低い声がして、肩を飛び上がらせた。
恐る恐る顧みたラスターが目にしたのは、最高に不機嫌な顔をしているシェリックだった。暗くなってきているせいで辺りは見えづらくなっているけれど、幸い彼は船内に続く、灯りのついた通路にいたのだ。夜目には自信がないラスターにも、辛うじてその顔が見えたのである。
「びっくりした……って」
シェリックの様子をまじまじと見つめる。顔は青ざめ、眉根にはずっとしわが寄ったままだ。不機嫌というよりも、これは。
「シェリック、大丈夫?」
単に機嫌が悪いだけではなさそうだ。
出発前、リディオルから言われたのだ。彼いわく、「もし嬢ちゃんが大丈夫そうなら、シェリックのことを見ていてほしい」と。
――あいつの船酔い、酷いんだよ。昔と変わってなければ、今回も死んでるはずだ。
リディオルにそう言われたので初めは船室にいようとしたのだが、シェリックに船内にいてばかりいないで好きにしろと部屋から追い払われたのだ。なので、ラスターはこうして景色を見に来ていたのである。
部屋に戻らなかったのはシェリックに追い出されたからではなくて、景色を見ていても退屈しなかった、という理由からだ。だというのに。
今見るとはっきりわかる。シェリックのこの状態は酷い。
「……船だけは慣れなくてな」
手すりに半身を寄りかからせながら上がってくる姿は、半分死にかけの態《てい》である。
ラスターは、シェリックが苦労して隣までたどり着く様を見ていた。と、あることに気づく。
「もしかして、今まで寝てたの?」
ところどころぼさぼさになった髪と、しわの寄っている服。隣に来たことでそれが見て取れたのだ。
「まだ部屋で休んでた方がいいんじゃない? 歩くのも辛いんでしょ」
シェリックは欄干で腕を組み、そこに顔を埋めている。普段何が起きても大抵は平然としているからこそ、より辛そうだ。
「……いい。今あの空間に閉じこもっていた方が余計に酷くなりそうだ……」
かすれた声で返事がくる。重症な様子に、ラスターは乾いた笑いを漏らした。
「リディオルからもらった薬は? 飲んだ?」
「……ああ」
リディオルから話を聞く前、ラスターに渡されようとしていた薬は、横からシェリックにかすめ取られたのである。どうしてと抱いた疑問はその後、リディオルの言葉で判明して。恐らくは酔い止めの類ではないかと推測される。
一度だけ、ラスターは船室に戻ろうとしたのだ。部屋をちらりと覗いたのだが、シェリックが横になっているのが見えたのだ。そのため静かに扉を閉めて、そこをあとにしたのである。
あの時は単に疲れているだけかと思ったのだが、どうやら違っていたらしい。
「風に当たった方が落ち着くんだ?」
「ある程度は、だな……」
シェリックの話す声が、いつもより数段違う。低すぎて、地底から響いてくるかのようだ。
あちゃあなんて思いながら。
「水でも持ってこようか? ちょっとは楽になるかも」
隣で額を手すりにつけているシェリックから、何も反応がない。どうしようと思案していたら、しばらくしてから微かにああ、という答えが返ってきた。
反応自体に鈍いのか、それとも答えるのが億劫なのか。どちらにしろ、あまり良い傾向とは言えない。
「リディオルから薬もらってくるのもありだよね」
「……いや、いい。リディオルの薬は効かないみたいだしな」
まさに身を以て体験済みであると言えよう。薬、と言えば。
「薬……あったかな。ボクの荷物にあったら一緒に持ってくるよ」
「いらん」
今までの反応が嘘のような即答で返され、一瞬言葉に詰まった。
「――じゃあ、水だけもらってくるね。ちょっと待ってて」
「……お前、船初めてだよな」
船内に向かおうとしたラスターの足が止められる。
「うん。そうだよ?」
答えながら思う――どうして今、そんなことを訊いてくるのだろうか。
「なら、俺のことなんか気にしなくていい。傍にいても、何も面白いことはないぞ」
その言葉に、むっとした。
「俺のコトなんか、って。困ってる人が目の前にいるのに、放っておけないよ。ボクでできるコトがあるなら、してあげたいし」
「十分間に合ってる。はっきり言ってありがた迷惑だ――俺に構うな」
「シェリック!」
それだけ言うと、緩慢な動作で身を起こしたシェリックはラスターの横を抜けていく。顔を背けたまま、船内へ戻っていってしまう。
後にはぽつりと残されたラスターがいた。
シェリックの状態も気になる。しかし、何故だか後を追いかけては行けないような気がして、ラスターはシェリックを見送る形になってしまった。
「……なんで、あんな言いぐさするのさ」
――はっきり言って、ありがた迷惑だ。
シェリックからそんなことを言われたのは初めてだ。
一体どうしたというのだろう。
シェリックにとって、ラスターは連れでもないということだろうか。
いくら互いを詮索しないのが暗黙の了解だったとしても、そこまで干渉しないようにしなければならないものだっただろうか?
「……外の方が落ち着くんじゃなかったの?」
確かにそう言ったのはシェリックだったはずなのに。
わだかまりが落ちてくるのを感じつつ、ラスターはその場から動けずにいた。