
昔々、といってもそれほど昔ではなく少しだけ遡った時代。針葉樹林の茂る高山に囲まれ、なだらかな田園の広がる限界集落のあるところに、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。
おじいさんは毎日、相次ぐ土砂崩れと人工林の荒廃を憂い、山をシバきに、おばあさんは毎日、栄養塩類の流入による生態系の崩壊と有害化による下流への影響を懸念し、川を洗濯に出かけていました。
ある日のこと、おばあさんがいつものように水質汚濁に係る環境基準の健康項目を遵守しながら渇水汚泥法を用いて排水処理を行っていると、川上から、どんぶらこ、どんぶらこ、と直径一メートルほどあるかという大きな桃が流れてきました。
おばあさんは折れ曲がっていた腰をシャッキっと伸ばし、落葉小高木の悠然たる果実をインスタに上げた後、大喜びでそれを拾い、片手で担いで家に持ち帰りました。
おばあさんはおじいさんの帰宅を待ち、名刀ムラサメを巨大な桃の寸分のズレもない真ん中に斬りつけました。
するとどうでしょう。桃は虹色に欄然と輝き始めたではありませんか。
とうにぽっかりと空いた内部に、人間の遺伝子情報と肉体を構築するための原子的物質が送り込まれ、DNAとRNAが組み上がり、人の形を成しました。
男の子の赤ん坊だったのです。
こりゃあたまげた!
おじいさんはその子供を新領域非存在系救世忘却太郎と名付けたがりましたが、おばあさんにグーで殴られました。
しかしおばあさんの方も、桃から生まれたから桃太郎、と実に安直でした。
十一時間ほど熟考した末、きたる新時代の幕開けを待ちわびるとともに、二人は男の子をMOMO太郎と名付け育てることにしました。
MOMO太郎は鰆丼を一杯食べれば一杯分だけ。
二杯食べれば、二杯分だけ。
三杯食べれば、三杯分だけ。
武士を斬り伏せば、血潮の分だけ。
形而上学を学べば、知識の分だけ。
農夫の娘を抱けば、快楽の分だけ。
すくすく、むきむき、ぼきぼきと育ちました。
大きくなったMOMO太郎は、大胸筋と前腕筋群に自信を持ち、生物工学と地球化学を研究しながら、おじいさんとおばあさんを手伝う心の優しい男の子になりました。
おじいさんとおばあさんはそんなMOMO太郎をときには優しく、ときには厳しく、それはそれは大切に教育しました。
そんなある日のことです。
隣の村に、鬼がやってきたのです。
立派な角を生やした巨大な赤鬼を先頭に、一万はあろうかという鬼の軍隊が偃月の陣形を成していました。田畑をクレーターに変え、家々を暗黒空間へ取り込み、村の人々から金銀財宝、食糧、農具、あげくの果てには道徳倫理と義理人情の全てを奪っていきました。隣の村は一夜にして崩壊したのです。
MOMO太郎は憂いました。憂い、嘆き、悲しみの涙を流しました。
そして決意しました。黒い雲の下でした。
これ以上、犠牲者を増やさないと。
もう二度と、悲劇を繰り返させないと。
私利私欲と破壊衝動こそ、この世の不徳そのもの。
悪鬼羅刹は滅さねばならない。
鬼ヶ島へ進行し、諸悪の根源を絶たねばならぬ。
おじいさんたちはMOMO太郎を止めようとしました。しかし、心のどこかで我が子の正義感を誇らしくも思っていました。
おじいさんはMOMO太郎のために、世界最高硬度の袴や羽織、金の草鞋を創造しました。そして、おばあさんは運動力学増幅団子、略してKB団子を現出させ、持たせました。
名刀ムラサメを腰に差し、白いハチマキを結び、いざ、MOMO太郎は夜明けと共に進発します。
さぁ、鬼退治の始まりです!
MOMO太郎は険しい峠を越え、山小屋で一服していました。
そこへ、ドスリドスリと何者かがやってきました。
犬でした。
――MOMO太郎さん、MOMO太郎さん。
華麗なサイドチェストを決めながら、犬は脳内に語り掛けました。
――私と筋肉比べ、致しませんか?
MOMO太郎は筋肉に自信がありました。
胸筋を十パーセントほど肥大させ、上腕二頭筋に力を込め、熱力学が武者震いをするような、重圧なモストマスキュラーを披露しました。
――こ……れは……! 筋量、引き締まり、均整……すべてにおいて高次元、高品質……!
犬は頭を垂れ、鉄以上の硬度を持つようになった腕を繊細に動かし、貴族のようなお辞儀をしました。
――お腰につけたKB団子、一つ私に下されば、敵の軍勢万や二万、薙ぎ払って差し上げましょう。
こうして、犬がお供になりました。
鬱蒼とした森林地帯を抜け、晩酌を奏でていました。
そこへ、スタッと何者かが降り立ちました。
猿でした。
――MOMO太郎さん、MOMO太郎さん。
四角い黒縁の眼鏡をくいと上げながら、猿は脳内に語り掛けました。
――現存する地球上の生物において、科学的な観点から考察した進化の未来を、ダーウィンの進化論を引用して論述してくれませんか?
MOMO太郎は勉学に自信がありました。
蓄積された記憶と知識を結びつけ、序論・本論・結論を丁寧に構築し、進化史に基づいた地球環境の未来について、種の起源も脱帽するくらいの弁舌をふるいました。
――な……んと……! 知識量もさることながら、頭の回転も速く、話術に長け、私の問いに対し要求以上の論を説くとは……!
猿は頭を垂れ、地球の科学全てを理解していたという慢心を正し、土下座をしました。
――お腰につけたKB団子、一つ私に下されば、敵の軍略百や二百、ねじ伏せて差し上げましょう。
こうして、猿がお供になりました。
発達した都市部にたどり着き、パチンコを打っていました。
そこへ、フッと何者かが転移してきました。
雉でした。
――MOMO太郎さん、MOMO太郎さん。
頭部で逆立つ金色の羽毛をかき上げながら、雉は脳内に語り掛けました。
――あの男女の痴話げんか、迷惑なので止めさせてくれませんか?
MOMO太郎は道徳に自信がありました。
男女が交際に至った経緯と喧嘩の原因を徹底的に洗い、二人の主張を客観的に分析し、菩薩も唖然とするような革新的な解決案をいくつも用意しました。男女の仲は保たれました。
――す……ごい……! どちらかを一方的に断ずるではなく、二人の意見を真摯に聞き、どちらも傷つかない折衷案を秒速で思いつくなんて……!
雉は頭を垂れ、自分の我儘ばかりを押し通してきた過去を恥じ、翼を下ろしました。
――お腰につけたKB団子、一つ私に下されば、利己的な暴力に走る者どもを鎮めて差し上げましょう。
こうして、雉がお供になりました。
MOMO太郎一行は山を越え、谷を越え、川を渡り、海を渡り、大陸を横断し、宇宙を縦断し、次元の狭間を抜けました。
そして、ついに鬼ヶ島へたどり着いたのです。
悠然と聳え立つ鉄塔、尖塔、摩天楼。都市一つ分はあるかという要塞、防塞、橋頭保。最奥でズシリと構える王宮、迷宮、鬼ノ城。その眼下に広がる巨大な街が、戦場に変わる刻は目の前です。
鬼も馬鹿ではありません。MOMO太郎一行の飛来を察知して、新たに編成された総勢二億の兵をもって迎撃準備を整えてあります。
二億対四。数の差は歴然です。
しかし、MOMO太郎一行にはKB団子がありました。
一口食べればあら不思議。全身の血流が活性化し、細胞の全てが強力に変異し、脳機能が人智を超越しました。肉体が膨大な運動エネルギーを生み出します。力がみなぎるのです。
けれども、それだけではありませんでした。
勇気です。はるか世界の彼方より集まった多くの願いが、MOMO太郎と犬と猿と雉の勇気を何倍にも増幅させたのです。
二人の大将がムラサメと棍棒を掲げました。法螺貝の音が高々に鳴りました。白い雲の下で、決戦が始まります。
犬はワンワン。自慢の筋肉をもってして、千や二千の軍勢を風に舞う砂粒のように薙ぎ払います。前腕を振るえば天が裂け、一歩を踏み出せば地が割れました。鬼の前衛は瞬く間に壊滅します。
猿はキーキー。自慢の頭脳をもってして、用意されていた百や二百の策謀を、見切り見破り見下します。爆礫、撒き菱、からげ紐。洗脳した鬼の一人を間者に送り、中衛は内部分裂を遂げました。
雉はケェケェ。自慢の倫理をもってして、王家に使える老鬼や近衛兵に、主の悪性と利己主義を説きます。正義の心は伝播して、暴力を鎮め、自責の念を膨らませます。後衛は自死を選びました。
ついに、鬼の大将のお出ましです。東京タワーと同じくらいの身長に、紅しょうがのように繊細な心、真っ赤に腫れあがった顔がまるで林檎のようで、MOMO太郎の精神が揺さぶられます。
しかし、MOMO太郎は屈しません。
名刀ムラサメを現在時間軸から過去へと伸ばし、移り変わり行く素粒子の四季をすべて手中に収めました。新領域を構築し、非存在系の結晶を創ります。
巨大な棍棒とムラサメが激突します。衝撃波によって宇宙の三割が元素のない砂漠と化しました。MOMO太郎は、破壊の跡を修復しようと現れた救世の構成素子をすべて吸収しました。宇宙の三割がMOMO太郎のものとなったのです。
そうなってしまえば、一生物である鬼はひとたまりもありません。
一瞬のうちに、首がスパリと斬られてしまいました。まさしく巨大な林檎のようになりました。
生首は次元の狭間を越え、宇宙を縦断し、大陸を横断し、海を渡り、川を渡り、谷を越え、山を越え、一つの木に引っかかって落ちました。ニュートンはそれを見て万有引力を発見したと言われています。
これにて決着、とはなりませんでした。
鬼にだって種類があります。屈強な兵士だけでなく、民間人ならぬ民間鬼だって暮らしています。その多くが、MOMO太郎を恐れ逃げ出さず、勇猛果敢に向かってきました。
MOMO太郎は切り伏せます。犬は殴ります。猿は罠に掛けます。雉は無益な争いを止めろと説得します。
しかし、鬼の一族は死んだ鬼たちを憂い、嘆き、悲しみの咆哮を上げながら当たって砕けろと突っ込みます。
赤鬼青鬼黄鬼白鬼紫鬼、男鬼女鬼子鬼小鬼王族鬼。
MOMO太郎は殺しながら気づきました。
その全てに、筋肉も、知性も、倫理観もなかったのです。
飛び込んでくる鬼たちを斬り、斬り、斬り。眠ることも休むこともなく早一年。屍が都市の地面を覆い隠し、血肉の腐臭が支配しました。鬼の命は、この宇宙のどこにもありません。
ついに鬼は全滅したのです。
MOMO太郎の勝利です!
一行は奪われたものを取り戻すべく、巨大な城に出向きました。
そこには金銀財宝食糧農具道徳倫理義理人情の全てが保管されていました。MOMO太郎はそれらをワームホールへと放り、被害を受けた村々に返しました。残された鬼の世界は宇宙からの忘却を果たしました。鬼という伝承生物そのものをデリートしたのです。
これにて、一件落着。
生まれ故郷に帰る前に、MOMO太郎はふと、後ろを振り返りました。
人の心を綴った紙本が一冊、木箱の中に保管されていました。
飲み込まれたはずの家々が、拙い技量で修復されていました。
状態の悪い土壌の上に、小さな芽が一つだけ咲いていました。
おじいさんとおばあさんは帰ってきたMOMO太郎を大喜びで迎えました。赤飯を炊き、鯛とフォアグラを調理して、バーボンをグラスに注ぎます。褒賞として、犬にはプロテイン、猿にはハズキルーペ、雉にはイエス・キリストが送られました。
しかし、MOMO太郎一行の誰一人一頭一匹一羽として喜びを表しませんでした。
翌日、彼らはまだやり残したことがあると言い残し、村を旅立ちました。
それ以降、MOMO太郎が目撃されることはありません。
それでも、村の平和は保たれたのです。
めでたし、めでたし。
「私はなぜ生まれたのか、何のために生まれたのか、と考えてきた」
「桃から生まれたからではない。宇宙には無限の可能性がある。桃から人が生まれることもきっとあるのだろう。問題は私の轍、荒野の枯草を踏み抜くことに、意思と意味があったのかどうかだ」
「生物というものは貪欲で、生き残るために、子孫を残し繁栄するために、あらゆる手段を用いる。過程がどうであろうとも、敗北のために生まれる虚しい存在は歴史上確認されない」
「彼らは村を襲った。繁栄のためだった。その鬼はどこからやってきた。彼らの技術力では高度な文明を構築することは叶わない。しかし、あの都市に過去が存在しないことは確認済みだ。ならばあの場所は、用意されていた舞台装置と言い換えられる」
「鬼は弱者だった。対して我々一行は強者だった。激突の結末はわかりきっているだろう。悪が正義に勝つことはない。しかし、悪と正義を決定せしめる物差しはなんだ」
「はじめから、討たれるべき悪として鬼は生まれてきたのだ。相対悪のはずだった生物は絶対悪に貶められたのだ。となると私も同類になってしまう。誇り高き武人は、勝利のために生まれてきた虚しい存在でしかなかったのだ、と」
「わかりきっている結末のために動かされた人形芝居。私の意思は、私のものではなかった。発起も決意も決戦も、意味する全てはみな笑われていた」
「『MOMO太郎は正義で、鬼は悪』……どう足掻いたところで、我々の行動は決定されていたのかもしれない」
「物差しの正体はそのような先入観であり、身勝手な道化の拠り所に過ぎなかったのだろう。怒りを覚えないはずがない」
「彼らを悪たらしめたる固まった価値観こそ、本物の鬼ではないか」
「今、目の前でふんぞり返る、貴様のそれこそ」
黒い雲の下でしょうか、白い雲の下でしょうか、晴れ渡っていますでしょうか。
もしくはそんなこと、どうでも良いとお思いでしょうか。
さぁ、鬼退治・第二幕の始まりです!
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