ショートショート「海のような」


有原野分2023/06/05 06:22
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ショートショート「海のような」

 ――この世界が抽象的な世界だったら、きっと心の傷もあやふやなままで生きていけると思うんだ。

 彼はそう言って消息を絶った。数年後、彼の遺体が沖縄の離島で発見されたとネットニュースで知ったとき、わたしはちょうど来月行く予定だった石垣島の航空券を急いでキャンセルした。

 海のような人だった。静かで、おおらかで、確かに底の見えない怖さもあったけど、基本的に彼はいい人の部類に入る人だった。

 わたしは学生の頃、バイト先で彼と出会った。彼は某遊園地の有名なアトラクションクルーだった。わたしはその助手として彼の隣で仕事をするようになった。基本的に彼は無口だった。それでもお客さんの前に立つと別人のように明るくなり、間違いなく場を沸かしていた。まるで芸人のようだと思った。客が引いた後、彼はよくため息をついていた。その顔には影があり、女性によくモテていた。わたしも彼のその顔をかっこいいと思う一人だったからよく分かる。彼は確かにかっこよかった。それでいて、不思議と恋愛感情には発展しなかった。

 一度だけデートをしたことがある。それは彼からだった。ただイタリアンのレストランに行っただけで終わった。男女特有のムードもなにもなく、あのときなにを話したのかも今となっては思い出せない。彼はそんな人だった。思えばよく分からない人だった。

 大学を卒業して、久しぶりにその遊園地に行ったとき、彼の姿はまだあった。なにも変わっていなかった。アトラクションの内容も、セリフも、大げさなリアクションも、機械の音でなにを言っているのか分からなくなることをネタにする場面も、まるであの頃にタイムスリップしてしまったかのようになにも変わっていなかった。

 わたしには彼氏がいた。きっと彼は相変わらず一人だと思った。アトラクションが終わったタイミングで目が合って、その夜、ラインが来た。

 それが最後の、あのセリフだった。

 彼は傷を負っていたのかもしれない。それはなんとなく分かる気がする。いや、彼は傷を負っているということを隠すのに必死だったのだ。だからあの笑顔を忘れることができなかったんだと思う。

 彼が亡くなってから、一度だけ当時のバイト先の人たちと飲んだことがある。本当はみんな彼のことを話題にしたかったんだと思うけど、誰一人彼のことを口にすることはなく、時間は過ぎていった。

 彼は一体、どうして死んだのだろうか。事故か自殺かも分からなかった。ただ彼が海で死んだと知ったとき、いかにも彼らしいと心の中で思った。それはわたしの中にあった現代の傍観者の血がそう思わせたのかもしれない。だとしたら、わたしたちはみな罪人だ。彼を殺したのは、まぎれもなく社会の渦なのだから。

 どうして彼にだけ甘くなるのかは分からない。わたしは今夜、彼氏を部屋に呼ぶことにした。愛がなければなんてセリフは中学生のときにすでに死んでいた。愛は理想だ。生きていく上での。

 旅行をキャンセルしたことによって、彼氏とは見えない壁ができていた。だからきっと近々別れると思う。でも、それでもいいと思っている。欺瞞に疲れたのかもしれない。そういえばここ最近親の声すら聞いていない。

 彼氏が来るまでの間、コンビニに行って煙草を買った。久しぶりに吸うメンソールは胸の奥にまで浸透し、そして忘れるふりをしていた生乾きの傷を思い出させる。スマホの画面からそれを探す。彼の最後のメッセージが目に写る。

 ――この世界が抽象的な世界だったら、きっと心の傷もあやふやなままで生きていけると思うんだ。

 見上げると曇天の中に一つだけ星があった。わたしは煙草を箱ごと捨てて、急いで家に帰ると、ニコチンを絞り出すように嘔吐して、歯を念入りに磨き、シャワーを浴びた。お湯が体を這うように流れ落ち、重力に従って排水溝に吸い込まれていく。わたしはそれを眺めている。耳には水らしい水の音しか聞こえない。そのとき、その流れていくお湯の先に、彼の知らない抽象的な世界がわたしを待っている気がした。わたしは腹の底に力を入れて、海に潜るつもりで生きていく決意を再びした。のまれてはいけない。決して、この世界は具体的ではないのだから。

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