時々夢を見る、深い海の中に沈みゆく私、その海の奥底で女性が私を待っている夢。
女性はまるで私の母親のように、いまに抱擁せんと両手を広げて私を待っている。
闇に溶けゆく私は無抵抗のまま、沈んでいく。
夢にはそれぞれ心理的意味があるらしいが、私にはこの夢の意味することが分からなかったーーー
ーーー2076年、文明は心の真理を解き明かそうかというところにまで踏み込んでいた。
人々は自らの好みによって性格を作り替えたり、心的不安やストレスを解消することができるようになっていた。
しかし、発展した心理の技術が正しく使われることはなく、ただ娯楽としての側面だけが強くなっていた。
目を覚ませば何ら変哲のない真っ白な天井が私ーー有栖川 咲ーーの視界に映った。
否、天井だけでなく壁も一面が白だ。
当然である、ここは病院なのだから……
私が精神障害でこの病院に入院してもう2年が経つ、お陰で本来なら高校2年生の私は枯れ木のような生活を送っていた。
本来こういう病人なら見舞いに来てくれる人がいるんだろうが、そんな人は私にはいなかった。
私はこの鳥籠のなかでひとり、変わることの無い景色だけを見つめていた。
外の世界はモノクロで色づくことはないだろう。
そして今日も私はひとり、ここに佇むはずだった。
だけど何事にも例外がある、いるのだ、私にも私を是とする物好きが……
ガラガラと勢いよく病室の扉が開いた。
噂をすればというやつだ……
「やぁ、有栖川さん……元気にしてたかい?」
静かな口調でありながらも、やや上機嫌気味に彼はそう言った。
この黒髪でいかにも人畜無害そうな男の名前は夏目裕也という、高校の入学式に少しあって話しただけの関係なのだが、先生に言われてだろうか?
こうやって定期的に私の見舞いにやってくる。
問いかけに対し無反応な私を横目に彼はお見舞い用に買ってきたリンゴやらなにやらが入った入れ物を病室の机の上においた。
「無理に返事しなくてもいいよ、どういう状態かは大体分かるから」
苦笑いしつつベッドの隣にある椅子に腰掛けて彼は言った。
彼にそう言われても私は無反応のままだった。
世間的には私のような人間は無愛想だとか、冷たい人間だとか言われるのだろうが、私にはその思いに共感できないのだ。
なぜならそれが私の障害ーー非共感性障害ーーの症状だからだ、この障害を抱えたものはこの世のありとあらゆるものに共感することがない、親も他人も、自然も生き物も、そして自分自身の心にさえ共感することは出来ない。
だから正確に言えば、無視してるのではなく、返答のする必要性を感じることが出来ないのである。
そして私は結果として彼の言葉を無視した。
一応返事をした方がいいと言うのは知識的には知っているのだ。
だけど実感は湧かない、世間の人が数学を知識として知っていても実用しないのと同じように……
分からないものに対して私は沈黙という手段しか取ることが出来なかった。
彼は、相変わらず無口な私に対して苦笑いを少し混ぜ込んだような、微笑みのようなものを作り上げたが、それから少しして俯き、地面をマジマジと見つめ始めた。
私と会話することを諦めたのだろうか?
当然だ、人形に語りかけて楽しい人間などいるものか……
暫く音のない状況が続いたが彼はすぐには帰ろうとはせず、相変わらず地面と見つめ合うのであった。
暫くした後、彼はようやく諦めたのか、意を決したようにして立ち上がり、静かにそれじゃあまたとだけ言い残して病室を後にした。
時刻は5時半、沈みゆく夕日だけが私を見つめていた。ーー
ーー夕暮れ時、病室を後にした少年ーー夏目裕也ーーは悔いていた。
なぜ自分は彼女を前にすると、上手く言葉を紡ぐことが出来ないのか?
単に彼女が反応しないということだけが理由ではないように感じて仕方ない。
自分では分からないこの感覚に彼は困惑していた。
本当はもっと話をしたい、しかし彼がそう願えば願うほど胸から出るこの衝動によって言葉が掻き消されてしまう。
少年は生まれて初めて生じた感覚の正体を掴むことが出来ないまま、視線を落とした。
夕暮れ時の影がひっそりと息巻いている。
暫くの間影を見つめ、深く自分を見つめ直す。
見つめ直しても頭に浮かぶのは彼女の横顔ばかりで自分の気持ちを整理することが出来ない。
長い黒髪に、透き通った瞳、あれほど美しいのに、どこか儚げで、何故か悲しげで。
綺麗なバラには棘があるなどと言うが、彼女には棘らしいものはなく、寧ろ弱々しく見てさえいた。
無菌室にでも閉じ込めておかないと簡単に枯れてしまうような、そんな弱々しさだった。
だから彼は
「あぁ、そうか僕は彼女が心配で仕方ないんだ、そうだ、うん、そうに違いない」
そう自分に言い聞かせ、彼は自分の感情を誤魔化した。
去り際の彼の足音がこだまする。
彼が名前すら知らないこの感情の正体を知るのはもう少し後のことであるーー
ーーその日の夜、眠っている有栖川 咲の元に近づく影がひとつ……
ゆらゆらと炎のようにゆれる「ソレ」は明らかにこの世のものとは違う存在だった。
だがソレは異形でありながらも見るものを魅了させる美しさがあった。
そしてそれは緩やかに、静かに、だけど弱々しく、有栖川のベットの隣へと近づいていった。
足取りは重いが、確実に近づいていた。
やがて、月の輝きに相反した暗がりの中で「ソレ」はようやく有栖川の元へとたどり着いた。
「ソレ」は彼女の前に立つと、両手からゆらゆらと黒く揺れる灯火を生じさせた。
黒くて、キレイで、でも危険な臭いを孕んだ黒い灯火を「ソレ」は有栖川の胸元へと押し込んだ。
吸い込まれるように灯火は有栖川への胸元へと入り込んでいった。
任務を終えた「ソレ」はゆらゆらと重い足取りのまま、夜の闇の中に溶け込んでいった。
月の輝きすら届かぬ夜、誰も知らない一夜……
そんな夜の中で起きた出来事だった。