第3話 - コンプレックスの塊 1
メインレースの桜花賞。
たくさんの人の熱気に埋め尽くされ、スタンドを揺らすような大歓声が上がった。
その迫力に圧倒され、僕はゴール前で立ちすくんだ。
桜花賞は3つある3歳牝馬限定レースの最初のひとつらしい。
3歳馬限定のGⅠレースをクラシックレースと言って、皐月賞、東京優駿(ダービー)、菊花賞、牝馬限定の桜花賞、優駿牝馬(オークス)、秋華賞の6つがあるそうだ。
皐月賞、ダービー、菊花賞は基本的に3歳牡馬のレースだけど牡馬限定というわけでもなく、トライアルレースを勝ち上がり出走権を得ることができれば、牝馬もレースに出走するのは可能らしい。
ちなみにGⅠのGはGRADEの頭文字で、グレードにはⅠ、Ⅱ、Ⅲまであり、グレードのつく大きなレースを重賞、オスの馬を牡馬、メスの馬を牝馬と言うそうだ。
3歳馬は人間に例えると高校生くらいの若駒で、ダービーなんてのは高校球児の夏の甲子園みたいなものだとねえさんは言っていた。
馬にとっては、まさに青春時代の、一生に一度の特別なレース。
もちろん馬にとってだけでなく関係者にとっても、他のGⅠレース以上の特別な思い入れがあるらしい。
「初めての競馬観戦で、目の前でGⅠ観れるなんてラッキーやで。よう観とき」
これから始まる桜花賞への期待で上気したねえさんの頬が、桜色に染まっている。
風に煽られたねえさんの髪が、隣にいる僕の頬を撫でた。
またあの香りがふわりと漂う。
ホントにいい香りだ。
ねえさんの色香にやられてポワンとしている僕の耳をつんざくように、ファンファーレが鳴り響いた。
たくさんの観客たちが、ファンファーレに合わせて丸めた新聞で手を叩きリズムを取っている。
ファンファーレが終わると、ものすごい大歓声が上がった。
「知ってるか?地方によってレースのファンファーレは違うんやで。関西はアップテンポやけど、関東はクラシカルやねん。もちろん中京競馬場も全然雰囲気の違うファンファーレがあるし、レースのグレードによっても違うねん」
「へぇ……面白いですね」
「でもやっぱり、関西のGⅠファンファーレが一番興奮するな!!お祭り始まるでー!!って感じがするやろ?」
「たしかに。なんだかワクワクします」
関西人は根っからのお祭り好きなのか、にぎやかなのが好きなのかな?
だからファンファーレも『いかにも関西!』と言わんばかりに陽気なのかも知れない。
「馬は臆病でデリケートな生き物やから、こんな大きい音出して怖がらせるべきじゃないんやけどな」
「そうなんですか?」
「それでもこんくらいのことでビビッとったら、大きいレースでは勝てん。これに動じんくらいじゃないと、大物にはなれんのよ」
「なるほど」
ねえさんはまた競馬を熱く語る。
知らないおじさんにこんなに熱く語られたらおそらくドン引きしちゃうんだろうけど、それがねえさんだと全然退屈じゃない。
やっぱり美人だからか?
それともねえさんには人を惹き付ける魅力みたいなものがあるのかな。
そんなことを考えているうちにゲートが開き、レースは始まった。
ねえさんの説明を聞いたせいか、女子高生がゴールを目指して必死で走っているような気がしてきた。
レースが終盤に差し掛かると、ねえさんは興奮して身を乗り出し、拳を振り上げて『わー!』とか『行けー!!』などと叫んだ。
そして最後の直線で3頭が競り合いになるとさらに興奮して、僕の頭を腕でガシッと胸に抱えた。
ね、ねえさん!!
胸っ、胸が当たってますけど!!
ねえさんの柔らかい胸に押し付けられた僕の顔の右側は、途端にカーッと熱くなる。
どうしよう?!
こんなこと初めての経験でテンパってる!!
ねえさん、こんなんでも一応僕だって男です。
いろいろヤバイから、もうやめて……。
いや、こんなオイシイこと、もう二度とないかも知れない。
やっぱりまだやめないで……。
僕の頭の中は煩悩まみれだ。
馬の女子高生の美脚より、人間の大人の女の胸の方がいいに決まってる。
ああ……もう、このままどうなってもいい……。
「ぃよっしゃあ!!」
ねえさんは大声を上げて、胸に抱えた僕の頭をボカボカ殴った。
「痛いっ、痛いです!!」
これは『ねえさんの胸にずっと顔をうずめていたい』などと、良からぬことを考えていた天罰でしょうか?
非常に痛いです、ねえさん。
「あー、ごめんな。思わず興奮してしもた」
ねえさんは僕の頭をヨシヨシと撫でて手を離した。
僕はジンジン痛む頭をさする。
あんないい思いさせてもらったことを考えたら、これくらいの痛さ、どうってことないです!!
……とは、口が裂けても言えない。
肝心のゴールを見逃してしまったけれど、まあいいか。
先輩の予想は見事に外れたらしい。
結局僕は、最終レースまで一度も自分の馬券を買うこともなく、ねえさんのそばでただひたすら競馬観戦を楽しんだ。
初めて観たけど、競馬って意外と楽しいかも。
それはやっぱり、ねえさんと一緒だったからなのかも知れない。
最終レースが終わると、おじさんが僕とねえさんを競馬場近くの小さな居酒屋に連れていってくれた。
その店は、おばあさんと呼ぶにはまだ少し若い女将さんが一人で切り盛りしている。
友人や先輩たちと行くようなチェーン店の居酒屋とは違う、温かみのある店だった。
「おねーちゃん、好きなもん頼めよ!」
「ほんならビールとモツ煮込みと揚げ出し豆腐ちょうだい!」
「アンチャンも遠慮すんな。何飲むんや?」
「それじゃ、僕もビールいただきます」
おじさんはビールと、料理をいくつか適当に注文した。
「競馬のあと、よく二人で一緒に飲みに来たりするんですか?」
「たまにな。おねーちゃんのおかげで大穴当てた時は、こうやってお礼するんや」
おじさんはねえさんと僕、それから自分のグラスにビールを注いだ。
「ほな、お疲れさん。かんぱーい!」
「かんぱーい!!」
「乾杯!いただきます!」
三人で乾杯して、ビールを飲んだ。
普段はあまり飲まないけれど、今日のビールはなんだか美味しい。
それからしばらくの間、女将さんの美味しい料理をつつきながらビールを飲んだ。
ねえさんとおじさんは今日のレースを振り返って盛り上がっていた。
興味深かったのは、僕が思っていた関西と実際の関西が違うことだ。
ねえさんは自分のことを『アタシ』と呼ぶ。
関西の女性はみんな、自分のことを『ウチ』と呼ぶものかと思っていたけれど、実際は違うようだ。
「アタシのまわりで、自分のこと『ウチ』言う子なんか、あんまりいてへん」
「そうなんですか?僕、ほとんどの女性がそう呼ぶんだと思ってました」
「アンチャン、テレビか漫画かなんかの見すぎちゃうか?関西言うても広いんやで。関西イコール大阪とちゃうしな。兵庫かって広いんやから、ここらへんと神戸は全然ちゃうし、県の北部なんかまったくちゃうからな」
ねえさんは笑いながらタバコに火をつけた。
「そう言えば、『ワイ』とか『おおきに』とか、『でんがな』とか『まんがな』とか、言いませんね」
「ここら辺のモンはあんまり言わんな。それ、ベタな大阪やろ」
土地が違えば、言葉も料理の味付けも違う。
女将さんの料理は出汁をきかせた優しい味で、素材の味が生きていて、とても美味しかった。
3時間ほど経って店を出た。
おじさんはすぐ近所に住んでいるらしく、店の前で別れた。
「アンチャン、電車か?」
「はい、電車です」
「ほな、駅まで一緒に行こか」
ねえさんと並んで駅まで歩いた。
ほろ酔い加減で頬を上気させたねえさんは、楽しそうに鼻唄を歌いながら歩く。